2024年03月28日

広島展にて芽生えたもの 改めて自分の思い

本日は共同通信さんの取材を受けました。改めて広島展で変わったこと気づいたこと。そういうことを話す中で、自分の考えがまとまってきました。

芽生えたもの。

広島の皆さんは、そういう自分自身のモノ化扱い、その心や身体を傷ついたものとして絆創膏のように張り包帯だらけのその裏を見せつつの絵を、切羽詰まった美しさ、そうでないとやりきれないよという、そこに説得力があると、共鳴してくれていた事を実感しました。私が社畜生活が15年、派遣が4年、ずっと低賃金で働き続けていたということ、その労働状況のひどさから、福島原発で汚染されたから殺された動物について、でも物じゃないんだと叫ぶ牧場主に共鳴したこと。私自身も、物じゃないんだということ。サービス残業ができないと言われたら、じゃあ代わりはいくらでもいるから、クビ、いらないよと言われてしまう生活も。

弱さなんて隠したいと思っていたけれど、自分の弱さを赤裸々に出している自分の表現を、その低賃金労働代表のような私の絵を、優しい眼差しで応援してくれる方が、広島にはたくさんいたこと。むしろそこに、現代の生々しさを見つけ、共鳴してくれたように思いました。

例えば私が大男で、権力者であったなら。例えば政治家であり、美大の教授など、ステイタスがあったなら。この絵は違うように見えたかもしれない。何もないような私だから、マッチしてるんだなぁって。元社畜ちんくしゃで良かったと、そんな私だから描けた絵なんだと、感謝で涙溢れる事が出来た展示会場でした。トラウマこそテーマ、中学生に言っていたのに、理解してなかった私。旧日銀さんにもあったかい眼差しで、会場はいつも極寒でしたが心はあったか。
あぁそういうことなんだなぁと。
福島で殺された、死産の動物は私自身である事を言葉で言ってきたけれど、改めて実感しました。

絵は私であり、私は絵である。なんてナチュラルな関係でしょうか。

広島と福島。ヒロシマとフクシマで繋げてしまうのは違うように思うけれど、絵はグラデーションみたいに共通性を曝け出して見つけてゆけるような、広島に住む方の多くが、死産のこと、絵肌から命の発見に涙し、天井画も観に行くと言ってくれました。

絵描きは絵で世界を変えることは出来ない。
そうよく言われる。そんな視線で神聖なアートを汚すなと、これもよく言われる。
でも今、ガザで虐殺が起きていて、ウクライナでも子どもがたくさん殺されているのに、戦争を止められない、これは、まさに命が物みたいにされている世界全体を露呈していると思う。私は看護婦さんやお医者さんみたいに、傷ついた人を助けたり直接的には何も出来ないけれど、原爆が落とされた、けれども残った、多くの方が亡くなったけど多くの方を助けた被爆建物で、どうにかして何かしたいとあがき、もがき、今だからこそ、命がたいせつと大騒ぎしたい。被爆樹木や動物に、微生物への畏怖から、こんな凄い命こそが希望だと、こんな世界変えたい、殺すなと口から出ちゃいそうでしたが、それを言葉にはせず、思いを込めて発表したつもりです。ただ、それだけのために描いたかというと、そうではない部分もあり、誤解をうむので難しいのですが・・

4分割になっている大作を、いつもは壁に張り付けるのに今回は養生テープで繫いでつり下げるのが大変だったのですが、おかげさまで、裏まで(養生テープまで)見せてしまえました。その生々しさは、かつてないほどでした。そこが大好きな方が思いのほか多かったのは、傷をさらけ出すこと、かくさない事、そうせざるをえない会場だったからなのですが、その全てが良かったのだと思いました。
IMG_4965.jpeg
IMG_4801.jpeg
IMG_4810-02338.jpeg
IMG_4805.jpeg

posted by 若菜 at 06:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月21日

広島展ご報告

みなさま

広島展がはじまりました。メディアがたくさん取材していただき、とても好評です。本日、丸木の岡村さんにもお越しいただきました。

複数のメディアで取り上げていただいていますのでご紹介させてくださいませ。



本日2日目。遠方含め、本当にたくさんのお客様にお越し頂きました。みなさまから頂いた感想の一部をご紹介させて頂きます。本当にありがとうございました。

私はものすごく感動している。マルキ夫妻の絵を見た時と同じくらい、高校生の時だった。すごい表現だと思って身が震えた。今それとおんなじような気持ちで、青年のように心震えている。あなたの絵を、手元に置きたい。いつも見ていたい。

よくぞ描いてくれました。中国新聞を見てきた。しかも若い方が、こんな大きな表現、素晴らしい。あなたに挨拶がしたい。旧日銀で親戚が被爆して、片腕がもげて、この日銀から飛ばされた死に方をした。3階にいたんだけども、その慰霊碑をこの敷地内に建てた。遺体を家族が運ぼうとしたら、当時は憲兵が持ち帰らせてくれなかった。当時はここは下水があって、水浸しだった。もげた手だけを、妹は持ち帰った。何故という気持ちで作品を作るようになった。自分は抽象画だ。平和記念公園はしっかりと描いてないと絵を引き取ってくれない。抽象化ではダメなのだ。死体に、内臓に足を裸足で触れた時の感触、踏む、ぐにゃりとした赤い感覚、肉の感じだったり、匂いだったり、そういうものを抽象的に感覚を表現しているが、そういう事は、許されない。全てがわかりやすいようなものを求められる。被覆ししょうを美術館にしたいという動きがある。あなたのような若い方に継ぎたい。ずっと、展示してくれたら嬉しい。「われ 死しても アートは残る。」

サミットで樹木を切られたこと、広島を汚して被爆者と語る時間5分、さっさと帰るあり方に腹が立っていた。切られた樹木に注目してくれて、描き残してくれて、心底すかっとした。

直接の被爆者じゃない差別もある。自分は広島出身だけど誰もいない、その、当事者感の差別。何でと思う。若い頃はわからなかった。何でだよって。でも今はわかる。明らかに態度が違う。ただ、線引きして、心は同じなのにと思う。そんなんじゃ、継承してゆけないのにって。絵を前にして、ずっと観ていたくなる。この場から、去りたくない。また来ます。

毒ガス研究をしていて、大久野島の案内ボランティアをしている。貯蔵庫を描き、上まで登るとは、大変だったでしょう。平塚市美術館と聞いてびっくりした。平塚市寒川には毒ガスを保管する工場があって、近くの工場で毒ガスを作っていた。図書館の前だ。かなり強い毒ガスで、せいさんガスを茶瓶に保管していたところを公開していた。

あなたの作品は、ヘンリー・ムーアみたい。立体感がある。迫ってくる。

沈黙の長崎と言われているが、広島の方がよほど。当時は、広島出身だと隠さないといけなかった。話したって、マイナスにしかならない。プラスにならないから。結婚も広島出身というだけで家族に大反対されたが、元気な家内に惹かれた。が、何十年も原爆症で苦しんでいた。

フィジカル。絵である意味。マチエールが魅力的。
会場とあっている。エル・グレコ。

山内若菜

IMG_4580.jpegIMG_4581.jpegIMG_4583.jpegIMG_4584.jpeg
posted by 若菜 at 20:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする