2015年09月25日

お金で血ぬられた今立つ生き物を


ラスコーの壁画は、単なる獲物の大量を願うというより、絵を描く事でそれを、牛を崇拝していたという見方がある。
人は狩をする万物の霊長ではなく、野牛が神だったと。そのように崇めていた。
牛や鹿や、その他の動物の持つ力、生命力に何らかの意味で敬意を表し、それらの偉大な動物の力などが、部族に助力することを願って描いた。
その高次存在である牛に、力、生命力の分与・幸福の分与、神である野牛自身が肉や毛皮を分けてくれることを祈願をした。
日常と聖、二分では壁画は聖であり、洞窟の深奥に描いて、日常を近づけないようにしていた。
言語や文字のない時代、15000年前の旧石器時代のクロマニョン人の絵。壁画。動物の脂、炭、血などをこねこねして指や獣の毛で描いた壁画。私は前の絵には意識して自分の血を入れてみた。ナアム。

が、私は昔は素晴らしかった、人間の原点はこれだ、と言いたいわけではない。今の現代の世界の血にぬられた世界、でもこちらの進歩した社会の希望のほうが素晴らしい、と私は描きたい。福島の多数いる牛、見てきた牧場、負けるかとふんばる牧場の絵を残したい。生命力ハイ、頂きたいです、同じ。筆で描き出しました。マネか。柔らかい生命タッチ、学びました。ハイ。でも福島の牛は本来の牛のような、ラスコーの壁画のような、あんな生命力はなかった。痩せて立ち、えさ不足からか、のろのろ無気力でダラーンとしていた。寝てる。覇気がない。汚れ、毛はパサパサだった。その中で多数の牛は、三百の群衆牛は、ふんばっていた。柵があり、囲い込み、牛舎がある。向こうには送電線が異様な数でのびている。そんな、私が見てるものは原発事故の直後の今の福島の牛の生命が集まる牧場だ。浪江町の牛、飯館村の馬。古代の壁画的要素を意識してしまった、と思ったけど。昔万歳がよぎるから。でも違い、私の壁画でなければならない。生命感は今のでなくてはならない。

「女はモノマネが得意だからな」という人もいた。「女は中身がない絵が多い。表面だけをなでる絵が多い。色彩だけとか、抽象に浸る。主婦が趣味は絵よ、なんて感覚で絵を描かれちゃ困るんだ。それくらい今は誰もが描ける。昔は男しか描けなかったのに」とブツブツ言う画家さんもいた。男の方でした。
でも本当なのは、日本人の女が絵を描く、発表するなんて、戦後からに違いない。そして先生のままの絵もよく見る。
だからこそ、精神とともに、取り入れていこう。ハクモレキモナイオンナノガカ。なんにもないからなんでもできる。ドリョクノガカ。サイノウハシラナイ。なにしろ、今の、現代の壁画でなくてはならない。image-848c8.jpg(・・;)image-e2930.jpg
posted by 若菜 at 07:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする