2015年09月16日

夜のビリビリの牧場


「お金により人間的に変わる自然、社会としての福島の牧場という対象を、把握し描くことを通じて、私、牧場という自然、社会に働きかけたい。」
それらを抽象的な作業で絵にたくしていき、思いの経過も出せるように働きかけたい。
中に光をみて生きる流れまで感じさせるような、こういうことなんだって叫びが聞こえてきそうなくらいに。
何を描いてもいい、見る人に託してもいい。何をたくして自分は描きたいがあっていい。多様さがあってみんながあってみんないい。そんなすばらしいことをやっているのに私は本日、破壊崩壊のびりびりの続きをやっている。
ザッザ。ビリビリ。こね、こね。土をいじる一人の子どもが心とか言ってる。
もやっとした悩みやすい気質に、絵が教えてくれるものは多い。心の流れが濁流なり激流になるかのようなこの絵。
こうあれ!って描いてのこうならなさ。大きいのはこう、自然そのものにまでみえてしまう。実際、原自然そのものに働きかけるのも魅力的だけど、それなら聖霊のごとく自然との媒介物に思いをのせるだろうけど、今はこの四角い平面を。壁画のように呪術要素もありのこの土の上に乗りながら描く子どもでありたい。
時間に比例しない、未来はよくなる約束なんてない。
執着して、塗りたくったからといっていいものが出来るわけではない。
言葉が得意ならその表現を追求すればいい。でも私はまとめる時に使うだけ。描くときは発見ばかりで後から言葉でまとめているにすぎない。
正しいか正しくないかではなく、答えのない、内がわの追求をこねこね。
「自分がそれがいいと思ったらやればいい。その道にいけばいい。他人に言われたからって、道を変えるの」「中途半端なのにそれらしく見せるのが旨い絵。はっきりしなさい。何が言いたいのかわかならいのよ」と、岩手からわざわざ来て頂いた書家の沢村澄子さんに言われた。
彼女は、岩手の震災復興チャリティー展でグループ展を一緒に参加した事を通じて知り合えた、尊敬する書家です。岩手の為にたくさんの気持ちをくれたあなたを観に来たと言ってくれたかっこいいひと。言うことはきついけど。どうでもいい相手じゃないからこそ、しっかり言ってくれたのだと思う。でなければ、リスクとエネルギーがいることをわざわざ言わない。それが3年前の鎌倉ジ・アースでの個展の時。今はそうありたくない。
何度も自分に向かって言っている。自分の中の子どもに言い聞かす。
「お金により人間的に変わる自然、社会としての福島の牧場という対象を、把握し描くことを通じて、私、牧場という自然、社会に働きかけたい。」

今、夜のビリビリの牧場。なんだか夜の暗闇が似合う絵。
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posted by 若菜 at 21:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする